*渡邊萠 プロフィールの追記*

本家HPの表プロフィールには書けなかった、自分の生い立ちや人形を作るに至った経緯を振り返ってみました。

興味のある方はお読みください。大した人生じゃありませんが表面上の私を見ているだけでは、どういう人か分からないのではないかと思うので。

好きなことをいまだにできる環境にいられるのは恵まれているのかもしれませんし、ものすごく苦労したとは思いませんが、ここまで来るのはやっぱり大変だったと知って貰いたい時もたまにはあるのですよ…。

東京に生まれ、保谷(現西東京市)に育つ。

東京にある一貫教育の私立学校付属幼稚園より短大まで17年間通う。

当時の家族は元教師でヤモメの祖父、小さな機械工場を伯父と経営している父、元教師で幼稚園事務職員の母。5つ上の姉。犬1匹。

ごく普通の家族でしたが、サラリーマン家庭ではなかったので少し変わってたかも…父の会社が何度も倒産したり(笑)

父の会社が2度目に倒産した時、姉もちょうどそれまで勤めていた会社を辞めたので姉と父が同時期に失業保険を貰いに職安に通っていたこともありました(^^;)

私は一風変わった一貫教育の私立校で受験を経験したこともなく、絵とマンガが大好きな世間知らずでお気楽な女子学生でした。



短大を卒業後、どうしても絵が描きたくて20歳で武蔵野美術大学日本画科を受験。
補欠の3番に引っかかるが惜しくも不合格。

くやしくて一浪するが、今度は補欠にも入れず不合格。京都の日本画専門学校に行きたかったが家族の反対にあい予備校を変わって二浪目突入。

なんとか、22歳で3回目の受験にして武蔵美日本画科合格。

受験を決意したのは、父の仕事も落ちついたので一度は諦めていた美大進学ができることになったのは良いのですが

もうここまでで、くたくたでした…(+_+)

ちなみに父が必死になって止めた京都の専門学校は3年もたたないうちに経営不振で潰れ、京都に行った浪人仲間の友達は皆戻ってきました(>_<)

この時はダテに何度も倒産してないとちょっと父を尊敬(^^;)


その父も、2010年4月に亡くなり、翌年母も父と同じ心筋梗塞でこの世を去りました。
あまりに突然だったので両親共私は死に目に会えませんでしたが、いつでも私たちを見守ってくれていることをずっと肌身に感じています・・・。

美術の先生になるつもりで教職課程をとっていたが、教育実習の前になって自分に不適合と思って途中でやめる。

それまでのいろんなストレスから3年の時に鬱病になってその後2年半神経科に通院。留年しそうになるがぎりぎりで卒業。

ほとんど世間と隔離されていた学校にいて受験勉強もしたことがなく、自分で飛び込んだ道と言ってもそれは大変なことでした。

父と共同経営者の伯父の家の従姉妹がやはり美大を出て絵を描きながら子供の絵画教室を運営していて、小さい頃からずっと憧れの従姉妹でした。

私もそうなりたかったのですが…目標を失ったのもひとつの原因だったかも。

一時は彼岸の向こうに行っていたらしくていろんな意味でちょっと危なかったです。

妖精の人形を作るようになったきっかけは、その時に経験した幻覚や幻聴が元になってます。

今も時々現実と幻の世界を行き来しているようで、それが人形に反映しているのかもしれません。



卒業後は就職先がなく、武蔵美の英語研究室の副助手に2年契約で拾ってもらい2年間勤務。

いわゆる、お茶くみでしたが週4日の勤務で部屋も与えられて空いた時間に絵が描けました。安月給でしたが先生方にも可愛がってもらって学生時代より充実していたかも…病気も少しずつ回復してきました。

日本画の公募展にも何度か応募するが、大きな展覧会はことごとく落選を繰り返す。

大学との契約終了後に結婚。大阪に転勤。

その後しばらく専業主婦で過ごす。

絵を諦めたくはなかったのですが生活が前提だったので、高価な絵の具を使う日本画を描ける環境ではなくなって実際描けなくなり、見切りをつけることになりました(T-T)



1988年神奈川県相模原市に転勤・引っ越し後、自由が丘の「ドールスペース・ピグマリオン」で吉田良一(現・吉田良)天野可淡に創作人形を学ぶ。

それまで人形は興味があって趣味でいくつか作ったことがありましたが、絵に代わるものを探しているところに吉田先生の作品集「星体遊戯」に出会って本格的に作りたくなり、最後のチャンスと思って出した絵の公募展に落ちた作品が戻って来た次の日に電話をかけていました。

1年半ほど通ったところで天野可淡先生が37歳で突然の事故死。

ある日教室に行ったらなぜか鍵が閉まってました。生徒が1人先生の家に電話をかけに行き、来る途中にバイクの事故で亡くなったと知りました…可淡さんは当時子供が2人いて作品集を2冊出版し、大きな個展も終えた後でした。

私はまだ何もやっていない…ショックでした。



その後出産と育児の為に人形制作を一時中断。

復帰した後も暫くは2人の子供を育てながらの制作となる。

可淡さんの早すぎる死がきっかけで、生きているうちに何かやりたい。と思ったことと、気軽な気持ちで産婦人科を受診したら思いがけなく「普通に生活していたら子供ができる確率はかなり低い」と医師に宣告され、1年間病院通いまでして授かった2人の子供とどちらも棄てられずに両方選択したので、そりゃもう大変でした…。



1994年にそれまで住んでいたアパートが手狭になり、鎌倉の社宅に引っ越す。

たまたま社宅があったので住み着いた鎌倉でしたが、創作活動にこれほどイメージを与えてくれる場所はなかったです。居心地が良く、社宅を出た後も町内に引っ越して今に至ってます。

ピグマリオンには子供が少し手を放れるまで13年ほど休み休みですが通っていました。



1999年の二度目の個展後に、パソコンを勉強してホームページを開く。

その後に自宅で教室を開いて人形の仕事もぽつぽつと貰えるようになり、現在に至る。

でも、お気楽な女子学生だった頃の自分の将来のビジョンには今の私はいませんでした。

美大生の頃もまさか今私が人形なんて作ってるなんて、夢にも思わなかったです。

名前を良く「本名ですか?」と聞かれますが、ちょっと違いますがかなり本名に近いです。
モエさんは、渡邊家の同居人+プータローと言う設定になっています。
(現在の住居に引っ越した時、郵便局にも同居人で提出済みです)

人形教室も最初は細々と1、2人ということが随分続きましたが、段々と少しずつ知られるようになり、人数も増えて教室展も開催できるようになりました。

教えながら自分も学ぶことも多く、いろんな方と出会えるのが何よりの楽しみです。

生徒には誠心誠意で教えているつもりですけれど、思いがちゃんと伝わらない寂しさも時々感じるこの頃です。
表向き恵まれて育って今に至ったように見えるかもしれませんが、私なりに悩み苦しんできたことはわかって欲しいのです…。

色々ありながらも、人形を作ることで自分が癒されたことを思い出して、日々精進しようと努力しています。


私が人形を作る意味、理由…自分でもよくわかりませんが、多分それは自分がこの世に生まれ、存在していたことの意味の確認;所謂アイデンデティー(Identity)なのだと思います。

小さい頃から勉強も運動もうまくできなかったし、ちょっと小太りで容姿にも自信がなかった。
学校は一般の偏差値で測れない一風変わったところ。
コンプレックスの固まりでした。
その中で絵を描くことが私の気持ちのよりどころでしたが、それさえも受験の失敗で描くことの楽しさも失せてしまって…いろんなことをやっていて、人形になった ということなのだと思います。

人形を作ることは自分を見つめること。
いろんな人と人形を通じて出会い、自分も人形も成長していきたい。

明日は無いかもしれない、いつもそんな気持ちで人形を作り続けています。
(たまに修正・加筆することがあります。時々読みにきてくれると嬉しいかも…)